学校教育リフレクション

主に学校教育を中心に綴ります。「学び」は学校に限らず、家庭、地域、社会と広く、生涯を通じて営み、人を育むものと考えています。

いじめの政治学

書誌情報:中井久夫著、『アリアドネからの糸』、みすず書房、1997年

「いじめの政治学

 

これほど、「いじめ」について、端的かつ真意を貫く文章はない。

教師と保護者に、是非読んでほしい。

    •  いじめはその時その場かぎりのものではなく生涯にわたって被害者の行動に影響を与える。


    •  子どもたちのやっているからかいや悪ふざけやたわむれの一切がいじめというわけではない。いじめかいじめでないかを見分ける一つの規準は、そこに相互性があるかどうかだ。鬼ごっこで言えば、ルールに従って鬼が次々に交替していくのであればそこに相互性はある。しかし、もし鬼が誰それと最初から決まっているならばそこに相互性はなく、ゲームはかぎりなくいじめに等しくなる。使い走りや荷物の持ち合いなどもそこに相互性があればよいが、なければいじめだ。
       特定の誰かがつねに劣位に置かれるようでは、ゲームとしては面白くなくなってしまうはずだが、その代わり増大するのが一部の者にとっての権力感、そして犠牲にならなかった多数の者にとっての安心感である。子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。子どもは家庭や社会の中では権力を持てないだけにいっそう権力に飢えている。


    •  権力欲とはどういうものだろうか。人間にはさまざまな欲望がある。しかし権力欲は他の欲望(睡眠欲、食欲、性欲)とは比較にならないほど多くの人間を、実際上無際限に多数の人を巻き込んで上限がない。おそらく、権力欲には真の満足というものがない。権力欲の快感は思いどおりにならないものを思いどおりにできるところにあるが、現状思いどおりにならないことも、より大きい権力を獲得してからであれば解決できるはずだと思い込めれば、現在の葛藤はさらなる権力の追求というかたちで先延べされる。つまり、人が自己のなかの葛藤との直面を避けつづけるかぎりで、権力欲の追求は無際限につづく。むろん権力欲自体を完全に消滅させることはできない。その制御が問題なわけだが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類はいまだ権力欲を制御する道筋を見い出しているとはいいがたい。
       非常に多くのものが権力欲の道具になりうるだろう。差別は、純粋に権力欲の問題だ。より劣位の者がいることを確認することは自分が支配の階梯を登るよりもはるかに容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。そこに、差別されている者がしばしば差別者になってしまう機微の一つがありもする。


    •  子どものいじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。子ども社会は実に政治化された社会だ。すべての大人は政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験すると言っていい。
       いじめの進行はその集団の外側からは分かりにくい。なぜか。それは、いじめが或る一定の順序をもって進行するからだ。私はいじめの過程をかりそめに「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。これは人間を政治的奴隷にするための手順のモデルでもある。


    •  まず、「孤立化」。
       標的を持続的にいくらでもいじめの対象にするためには、孤立させなければならない。だからいじめの主眼は最初「孤立化作戦」におかれる。それは誰かがマークされたということの周知からはじまる。そうすると、マークされなかった者はほっとして、標的から距離を置く。それでも距離を置かない者にはそれが損であり、まかり間違うと身の破滅だよということがちらちら示される。
       ついで、いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦がはじまる。標的になった者の何ということはないちょっと変わったところや癖といったものが、ことさら照明を当てられ、問題とされる。これは周囲の差別意識や安全保障感に訴える力がある。その集団内に何の意味であっても「自分より下」の者がいることに多数の傍観者が快楽を感じる。
       そしてこのPR作戦は、被害者にも自分はいじめられても仕方がないという劣等感を次第にしみ通らせる。被害者ははじめは自分の行ないを正すとか、弁明するとかしてその状態から抜け出そうとする。そのことは時には成功する。しかしそれによって世論が何も変わらないと悟ってしまうと、かえって被害者は自分がいじめられてしかるべき、魅力のない、好かれない、生きる値打ちのない、ひとりぼっちの存在であるというふうに次第に思い込むようになる。被害者のこの思い込みは、被害者自身の自律神経系や内分泌系に悪影響を与え、実際に被害者をそういう見掛けに仕立てあげてゆく。その状態は、周囲の人を遠ざける。また、加害者を勇気づける。
       さらに言うと、このPR作戦は年長者にも向けられる。うかうかしていると教師といえども巻き込まれる。「そういえばあいつにそんなところがあるよなあ」などといつの間にか加害者に同意を与えてしまっていることもあるかもしれない。家庭への連絡帳に、お子さんの欠点として、まさに加害者のPR作戦の内容をなぞったことを書いてしまうことさえあるかもしれない。


    •  しかし「孤立化」の過程ではまだ被害者は精神的に屈伏していない。ひそかに反撃の機会を狙っているかもしれない。そこで、次に加害者は相手の「無力化」を試みる。
       「無力化」の目的は、要するに被害者に反撃は一切無効であることを教え、被害者を観念させることだ。そのために「懲罰」が用いられる。被害者の反抗のかすかな兆候に対しても過大な懲罰を与えること。さらには「反抗を内心思っただろう、そのはずだ」という言いがかりをつけて懲罰することも有効だ。被害者には現状から脱け出したい気持ちがあるから加害者の当て推量は当たって当然だが、被害者は内心動揺する。被害者は加害者に自分の心がすっかり見すかされていると誤って思い込み、やがて、加害者の懲罰よりも先に自分で自分の振る舞いと内心の動きを気に掛けるようになる。被害者は絶えず警戒して気を配っていなければならなくなる。それに対して加害者は攻撃の焦点も方法も場所も時間も自由に選べるのだから、圧倒的に有利だ。この彼我の格差が長くつづくと、被害者は加害者に比べて自分が情けない、劣った人間だと信じ込んでしまう。このようにして被害者は飼い馴らされる。
       被害者が大人に訴え出ることには、特に懲罰が与えられなければならない。それは大人の介入を締め出すためというより(そもそもあまりにも多くの事例で大人は有効な介入ができていない)、「大人に話すことは卑怯である」「醜いことである」という道徳を被害者に内面化させるためである。被害者が自分でも大人に訴えるのを醜いことと思うようになれば、孤立化はもはや強いられたものでなく、被害者の自発的な選択となる。ここで暴力をしっかり揮っておけば、あとは暴力を揮うぞというおどしだけで十分になる。


    •  いじめの最終段階として「透明化」が起こる。
       この段階になると、「孤立化作戦」によって被害者は孤立無援であり、また「無力化作戦」によって反撃あるいは脱出のための力を奪われ、ほとんど自尊心というものを失っている。そして被害者の世界は狭まってゆき、加害者との対人関係だけが彼にとって内容のある唯一の関係となり、大人も他の級友たちも非常に遠い存在になってゆく。被害者はいつも加害者の眼を逃れられないと感じる。加害者の眼は次第に偏在するようになる。たとえ海外旅行に連れ出されたとしても、加害者はその場に臨在している。独裁国の人民がつねに独裁者の眼をいたるところに感じるのと同じ心理的メカニズムだ。
       すると、被害者は次第に、「さほどいじめられない」ことを恩寵だと思うようになってゆく。加害者に会ってもいじめられなかった時など、その幸運をまるで加害者から授かった実にありがたい恩恵であると感じはじめる。そして被害者は加害者の気分や些細な表情や仕種に非常に敏感になり、それに従って卑屈に行動するようになってゆく。加害者もそれを分かっていて、この「恩恵」を強調するために、しばしば自分の気まぐれを誇張して表現し、被害者が予測できないようにする。予測というのは圧倒的な敵に対した時の最後の主体的行為であるが、これを封じ込められると、被害者はいよいよ自己信頼を失い加害者に感情的にも隷属してゆくようになる。
       こうなると、加害者は些細な恩恵、今日だけは勘弁してやるといった「恩恵」によって、いじめの構造の維持のために当の被害者から協力さえ得られるようになる。被害者は、加害者との仲の良さを周囲に誇示するようになる。楽しそうに遊んでみせることもある。加害者の末席に連なることもある(ただしこうした被害者の献身的行為は、加害者からはまるで無価値なもののように扱われる。それによって被害者はますます打ちのめされる)。それを加害者は世論に──とくに大人たちの眼に──目撃させるようにはからう。このことによって被害者は「被害者」というアイデンティティすら奪われ、いじめは傍観者には見えないものとなってゆく。いや、よく見れば仲良しの誇示のなかでも眼が笑っておらず、加害者の仲間内でその子だけが緊張を解いていない。しかしそれも傍観者には「選択的非注意」という人間の心理的メカニズムによって、いつもの光景の一部としか映らなくなる。いじめの「透明化」の完成である。
       傍観者たち──とくに大人──は「見ない」ためのさまざまな言い訳を用意している。「子どもの世界には大人がうっかり容喙してはならない」「自分もいじめられて大きくなった」「子どものためになるだろう」等々。それどころかこの段階にいたると、大人が「きみはいじめられているのではないか」と尋ねても、被害者は激しく否定し、しばしば怒り出す。そこには「何をいまさら」「もう遅い」という恨みと、自分のことは自分で始末をつけるという最後のイニシアティヴを大人の介入によって明け渡したくないという、絶体絶命のプライドがある。このプライドは多くの大人にとって理解しがたいものであるが、ぜひ理解しなければならない。


    •  なるほど、子どもの世界には法の適用が猶予されている。しかし、それは裏を返せば無法地帯でもあるということだ。子どもを守ってくれる「子ども警察」も訴え出ることのできる「子ども裁判所」も、ない。子どもの世界は成人の世界に比べてはるかにむきだしの、出口なしの暴力社会だという一面を持っている。子ども社会のそういう暗黒面に閉じ込められてしまった者の絶望感は、ほとんど強制収容所なみではないだろうか。それも絶滅収容所の。もちろん子どものいじめにおいては直接生命を奪われるということはない。また、被害者にも家庭という避難所があるではないかといわれるだろう。しかしいじめの場合、直接間接の暴力だけが辛いのではなく、特に「透明化」の段階で辛いのは、加害者がいかに巨大で、自分がいかにちっぽけでとるに足りないかという自己の無価値化を身に染みて味わうことである。不思議なことに、道徳的劣等感はいじめられっ子の方が持ってもいじめっ子の方は持たない。強制収容所においては、この状態からさらに一歩を出れば、自尊心も自己決定も何もない、殴打の痛みも拷問の痛みも感じない生ける屍となり果てるという。
       いじめの構造の壁は透明であるが、しかし眼に見える鉄条網よりも強固だ。


    •  以上はほとんどは私自身が体験した状況である。ひょっとするとこの一文は、誰よりも、いじめられっ子にこそよく理解してもらえるのではないだろうか。敢えて私ごとを記した所以である。さらに「透明化」の理由がわからなくて戸惑っている親や教師にも多少の参考になれば幸いである。

 「resume : 中井久夫「いじめの政治学」−忍者ツールズ–  」HPより

 

アリアドネからの糸

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