学校教育リフレクション

主に学校教育を中心に綴ります。「学び」は学校に限らず、家庭、地域、社会と広く、生涯を通じて営み、人を育むものと考えています。

不登校という二次障害

不登校になる理由は様々である。

そして、不登校の理由が変わり、不登校であることが理由になる。

「休み過ぎて行きにくい」それである。

義務教育である学校を行かないと公共の様々なサービスも受けられない。

学習はもちろんのこと、学校保険法に定められた健康診断もである。内科健診、身体測定、聴力検査、尿検査、心臓検診、歯科検診、耳鼻科検診、全て無料で受けられ、健康や成長に問題のある子どもを見つけるためのものである。

 不登校を2次障害という視点で見ると、確かにいじめや馴染めないという様々な理由で始まったとしても、行かなければならない、行きたいのにいけない、という葛藤から行けずにいる自分を責め、周囲からの励ましの声も結局行けないことで自尊を挫いてしまう。いじめであれば他者からの攻撃が、自らの攻撃に苛まれる。馴染めない、ちょっとしたトラブルであれば、自分が悪い弱いといった自己否定につながり自己有用感を貶めてしまう。こうなると新たな場所を求めて、いじめや馴染めないといった理由を取り除いても、まず気持ちを奮い立たせるという大きな作業が必要になり、スタートを切るのも困難になる。また、家族関係も微妙なものとなる。学校に行く、行かせるのが当然のような風潮により、それができない事への疑問や苛立ちが湧き上がる。その矛先が子どもや学校に向けられたり、保護者自身を責めることもある。そうした親の姿を見ることでも、親を苦しめているのは自分だとさらに責める。教師の良かれと思った行為や学校におけるルールに縛られしまった行為(無自覚であることが多いが)によって、期待や学校のルールを守れないことでさらに傷つくことになる。蟻地獄のように、もがけばもがくほど深みにはまる、息の詰まるものが不登校である。

 学校に行く意義を全く持たず、独立独歩で我が道を進んでいるのは不登校ではない。

不登校は、学校に行かない行けない、そのもので苦しんでいる子どもの問題であり、それを生み出している社会の問題でもある。