学校教育リフレクション

主に学校教育を中心に綴ります。「学び」は学校に限らず、家庭、地域、社会と広く、生涯を通じて営み、人を育むものと考えています。

いじめも青少年の自殺も、学校教育における2次障害

「いじめはなくならない」という言われている中で、

  学校だけは「いじめゼロ」「いじめ撲滅」と叫んでいる。

  確かに、行き過ぎたいじめは決してあってはならない。

  いじめは学校だけにあるわけではない。

  家庭で、職場で、人が集まれば、2人のときでもいじめは起こる。

    それは笑いから始まる。

 

笑いには、3つあると(誰かが言っている?)

ウィット(人を刺す笑い)

コミカル(人を楽します笑い)

ユーモア(人を幸せにする笑い)

 ウィットは、人を刺す笑い。

 罰ゲームで笑ったり、自虐ネタで笑いをとったりなど

心の隙間に刺さりこみ、それを広げることで人からの笑いを誘う。

 その場の「笑い」を目的にしているから、後に残したくない「笑い」になる。

 だから、この「笑い」はやらされたり、過ぎると人は傷つき「いじめ」となる。

ウィットな「笑い」は、場を和ませたり盛り上げたり、人を話題の中心したり、

とても便利で有効なものでもある。

 そこで、苦い経験をすることで「いじめ」を自覚し、考えることができる。

 

「いじめ」をなくす為には、この苦い体験が必要になる。

 苦い経験をさせてはいけないと言ってがんじがらめにしてしまったら、人と交わるどころか話をするのも怖くなってしまう。嫌な思いをした、させてしまったという事に気づく。多くの気づきで、嫌な思いに対して強くなり、させないようになる。強くなり、気遣いができるようになる。人の成長にとって欠かせないことである。

 

「いじめ」が、なぜ2次障害なのか。

 それは学校での対応によるもの(学校が社会から追い詰めれている現状を理解しなければならないが)だからだ。学校での「いじめられた」、「嫌な思いをした」、「気に入らない」といった感情に対して否定的にとらえ、感情そのものの原因と解決に翻弄されている。目の前の事に気持ちが行き過ぎて、一つの事実を取り囲む全体を見失い、押し込める方向に流れていく。「いじめ」はいけない。口で言うのは簡単だし、いけないという事もわかっている。でも、起こる。「いけない」という禁止令だけが飛び交い、そこに流れる個人の感情と集団の意識を成長を見落としているからだ。

 

「青少年の自殺」が、なぜ2次障害なのか。

「未成年の自殺}でも触れたが、自殺の理由で一番多く選ばれているのが、「学校問題」だからである。 その中でも対人関係の理由よりも、入試や進路、学業不振が上位を占めている。子どもたちの可能性を引き出し、社会に送り出すはずの学校が命を絶つ理由になっているからだ。

schooledureflection.hatenadiary.jp

  

 

学校を批判しているのでなない。

 学校を取り巻く日本の教育環境、追い込まられているの学校で教育を受けている子どもたち、子どもたちの為にと心身を削って学校という現場に向かう教師。

 見落とされ世の中からこぼれちる人々がいること。

 日本の生活や経済の水準の右肩上がり成長の時代から成熟の時代に入ったこと。

 成熟には、成長とは違った指針や方法が必要なこと。

 子どもたちの「いじめ」や「自殺」を通して、自分事としてどうしたら状況を変えられるのか考えてほしい。子どもと関わることがない人にも考えてもらうことで、何かが始まる。関心が集まることで、変わり始めるから。