学びは、人を幸せにする(2)
2.かけがえのない存在(自分の可能性を信じて、才能を引き出そうとする)
たった一人しかいない自分が、どれほどのものかは分からない。類まれな才能を持っている天才を指すわけではない。多くの人々に感動と歓喜を与える程のものでもない。自分でも気が付かない、その力を見つけ伸ばすことで、自分はもちろんパートナーや仲間にささやかな喜びやぬくもりが生まれる。
才能をどうとらえるか? 国語、数学などの科目にとらわない、7つの知能から考えてみる。言語敵知能、論理数学的知能、音楽的知能、身体運動的知能、空間的知能、対人的知能、内省的知能【ハワード・ガードナー:MI:個性を生かす多重知能の理論』、単一のものではなく、複数の知能が様々なレベルで融合し、才能が成り立っている。身体運動的知能と空間的知能からパイロットの資質が見えてくる。それはとても見えにくい、生まれながらにして自分の才能に気づき自らを鍛えていく人もいれば、生まれ育った文化や風習にとらわれ、自分の才能に気づかずに人生をとげる人もいる。
かけがえのない自分の才能を伸ばすにはどうすればいいのか。➀才能を限定しない。②それを好きになる、夢中になる。③仲間を作る。④チャンスを逃さない。⑤制約の輪から逃げ出す。⑥出会いを大切にする。⑦年齢にとらわれない。【ケン・ロビンソン:才能を引き出すエレメントの法則】ことが重要になる。これは、性格特性のビックファイブにも通じている所がある。ビックファイブの外向性は、仲間を作るコミュニケーションが必要だし、精神不安性は、制約の中から抜け出すきっかけになる。経験への開放性は、才能を限定せずに様々な事への挑戦を指し、協調性は、出会いを大切にする前向きさを表している。グリフィス大学応用心理学部のアーサー・ポロパット博士が、最も有益な性格因子と位置付ける唯一勤勉性が残る。これは、3つめの意志につながる。
才能を伸ばすには、周りとの関係や自分の中にない新しいものへの関心がなければならない。それは、自分と向き合ったり、パートナーや仲間と関わりが重要である。かけがえのない存在は、自分を大切にすること、それと同じくらい相手を大切にすることに他ならない。
学びは、人を幸せにする
「学び」は、生まれた時から始まる。生まれたばかりの赤ちゃんは、肌で暑さや寒さから外の世界を知り、空腹から自分の欲求を感じていく。次第に、世話をしてくれる人を通して、人との関わりを学んでいく。いつしか、社会で生きていく事を学んでいく。
「学び」は、人を幸せにする。それは与えられるものではなく、自分から掴み取らなければならない。その方法を学ぶ場が、家庭や保育園、学校であり、それを導いていくのが発達援助者になる。生きにくさを感じている人に寄り添う人だけではなく、先生や保護者も、その存在が関わる人にとって発達援助者になっていることを知っていなければならない。「関わり」は、相手が赤ちゃんでも一方通行ではなく、影響し合うことでそれぞれに「学び」を与えてくれる。「学び」は、限りのない気づきや理解だけではなく、深い愛のようなもの。子どもを産んだから愛せるのでなく、産むまでに我が子を慈しんでいたからこそ愛せる。愛も学ぶもの。「学び」は、知識の量を指すのではない。思考の習慣や思い、意志で構成され絡み合い、うねりながら、自分のものになっていく。それを「学びのリフレクション」と呼ぶ。
人を幸せにする「学び」を掴むために
学びのリフレクションは、3つの対象である自分自身やパートナー、仲間(社会)とのリフレクションを繰り返すことで進められる。思考の習慣や思い、意志の3つの領域の中で、それぞれの対象の中でリフレクション繰り返し、対象を変えながら進める。
(パートナー:自分にとって安心して寄り添える人、親がそうとは限らない、年齢や性別を問わない)
1.思考の習慣(知る。理解する。それと向き合う。)
知識を得る「知る」の他に、無自覚だったこと、気がつきたくなかったこと、心に蓋をしていたことを「知る」ことで、大きな心の痛みと苦しみから怒りや不安、深い悲しみを経験することになるかもしれない。しかし、「知る」ことからすべてが始まる。理解し、それと向き合う。それには、5つ段階から成る思考の習慣がとても有効になる。自分を客観的に見つめる習慣でもある。それは、➀そうだと言える根拠の問題。②誰が言っているのかという視点の多様性。③パターンや関係を見つける原因の問題。④状況が変われば事態はどう変わっていたかという仮定の問題。そして、⑤それらが誰にとって重要かという問題。
リフレクションを繰り返し、時には対象を変え新しいことを知る。そして、理解を深めていく。「知」を取り入れること、「知」乗り越えることに細やかでも確実な喜びを得る。小さくも意味の大きい幸せがある。
*知ることの苦しみ:毒になる親(スーザン・フォワード)
*考える習慣:学校を変える力(デボラ・マイヤー)
くしゃみを注意する
派手なくしゃみをする生徒に、「随分派手なくしゃみをするな」と声を掛けたら、
○○先生達には、「注意されました」と返ってきた。
生徒の受け取り方だと思う。
「くしゃみをやめなさい。その咳払いは何?」と言うのでは、誤解が生まれる。
いじめの「しぐさ」の一つであれ、その言い方には教師の高圧的な上から目線(別の言い方を考えたい:教師のしっかり指導しなければならないを上手く表現したい)では、伝わらない。
まずは「心配している、気になる」を伝える。「大丈夫か、風邪か」など
何人もするなら全体に投げかける。「クラスで流行っているのか」など
いじめの「しぐさ」特定の生徒の時だけするなら、はっきり聞く「○○の時に多いようだけど、どうして?」生徒指導が厳しい状況になっているなら生徒から「先生の勘違いですよ」と返ってくる。沈黙が続くなら生徒の中にためらいや罪悪感がある。「やめようね」で終われる。
「先生の勘違いですよ」と公然と教師に言い返された時は細心の注意を払う。本当に自分(教師)勘違いなのか。いじめの「しぐさ」を感じる先生は勘違いではないと思います。ここで「そうか、先生の勘違いか」と認めてしまうと、いじめの「しぐさ」は教師公認の「しぐさ」になってしまう。
どうすればいいのでしょう。「そうかもしれないが先生はそう感じるし、もしわざとなら、それはイジメです。本人がそうではないと言っても私はイジメだと思います」と伝える。そして、担任や学年の先生にその事実を伝える。
いじめは必ずしも多数から一人に向けられるものではない。たった一人からのイジメもある。いじめは決してなくならない。だからこそ授業の中のいじめの「しぐさ」を見逃してはならない。いじめられている生徒は、認めたくないし自分がそうされても仕方がないと思っているかもしれない。
マイノリティがマジョリティ
『マイノリティがマジョリティ』は、前川喜平と寺脇研の本に出てくる。
少数派が多く締め、その総和が過半数を超え多数派を上回っている。というもの。
貧困家庭が何%、ひとり親家庭が何%、発達障がいが何%というようにすべてを足し算しての話である。ひとり親で発達障がいの子どもを養育している。そのような重複を見込んでいない。話としてはとても面白く頷けるところもある。マイノリティという時点で多数派から追い込まれている。生きにくさや偏見に苛まされている。様々なマイノリティに対する理解を広めないと名前をつけてレッテルを貼ることになる。認知が広がるのは好ましいことかもしれないが、それが偏見や弱い立場にいる人たちの標的になってしまうとしたら、とても哀しいことになる。いっそのこと学級ひとクラス分の全員のマイノリティの分類があったら素敵なことになる。
全員同じではない、ひとりひとりが違っていて当たり前。
そして、その違いをみんなで認識する。全員マイノリティの名前がついているから。
それはとても素敵な感覚で、深い時間を過ごせると思う。
物凄いマンションを見上げてみれば!?
どんどんマンションが建てられている。低金利の駆け込みという話もあるが。
景気も金利も関係ない。
あの見上げるようなマンションに住んでいる人がいて、それをペイできる。
そういう人たちが、たくさんいる。
目線を落とせば、段ボールに寝泊まりしている人もいる。
どうしてしまったのだろう?
人より頑張ったから、そうなったのは自己責任、
経済的な弱者が別の弱者に敵意を向けている。
(朝日新聞20180505「憲法を考える3⃣」:井出教授慶応大教授)
子どもの数はどんどん減っている。人手不足だから外国人に来てもらう。
引きこもり、生きづらさを感じて表に出てこれない。
社会との関わりを持ちにくくなっている人がたくさんいる。
ネット難民、最貧困女子、奨学金破産、
日本の「子どもの権利」に関する立ち遅れは、国連からも指摘されている。
(条約44条に基ずく政府報告審査2010.6.20)
障がいを持つの人への偏見と乖離。
パラリンピックはとても意義深いものであるけれど、
知的や情緒に関する障がいに対しては、?!
どれも同じなじように見える!
本人の意思によらない力の弱きを攻める、突く、見下す
「子どもを生むのは一人の女性、でも育ててていくのは社会の役目」
とどこまで本気で思えるのか!
社会に参加していなければ、それは国とって大きな損失と思えるのか!
マンションを見上げると、なんだか頭をよぎっていく
「わかった」から理解へ
より深く「わかる」ために
心理的な能力は、それぞれ異なる神経ネットワークによって支えられている。
・視覚や聴覚、触覚を介してモノを知覚する能力
・モノの交換的位置を知覚する能力
・言語を操る能力
・数を操る能力 など
(1)大きな脈絡と小さな脈絡の理解
小さな脈絡が阻害されているのに、日常生活には支障がない。
例えば、数概念という道具的能力に障害があるのに日常生活に支障がない。
小さな脈絡はすべて保たれているのに、日常生活に支障がある。
例えば、「花に水をやる。雨の時には傘をさす。」雨降りに水やりをする。
(2)浅い理解と深い理解
文字列の違い(浅い理解)と意味の関連(深い理解)
例えば、タバコとスバコの字の違いは瞬時にできる。(浅い理解)
意味的に関連があるのか判断するには時間がかかる(深い理解)
(3)重ね合わせ的理解と発見的理解
重ね合わせ的理解:答えが自分の中に用意できる。学校教育という教育形式が代表的なものになる。学校教育が様々なモデルを教えるのは、自分の判断の基準として人生を切り開いていくためある。
発見的理解:答えが自分の外にしか存在しない、自分で仮説を立てて、検証して理解していく。
重要なのは、後者の理解である。
「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学 (ちくま新書)より
「わかる」ために何が必要か
わかりたいと思うのはなぜか
我々は何にでも意味を見つけたがる。意味をつけないと落ち着かない。意味とは、わからいものをわかるようにする働きです。意識は情報収集のための装置。情報収集とは、秩序を生む心の働きです。わかるというのは、秩序を生む心の動き。秩序が生まれるとわかったという信号を出す。その記号が出ると快感や落ち着きが生まれる。
生きるということ自体が情報収集となる。
1.記憶と知識のの網の目を作る
わかるためには、それなりの基礎的な知識が必要になる。
2.「わからない」ことに気づく
心の異物感。自発的にわからないところをはっきりさせて、自分で解決していく。
3.すべて一緒に意識に上げる
作業記憶。図という手段によって全体の関係が同時に意識できる。
4.行為(運動化)にする
運動化(字を書く、自転車に乗れる)することは形をはっきりさせる。
人に説明すると、自分の「わかった」「わからない」が見えてくる。
5.応用(知識を別の場面で使う)する
知識の引き出しが別々になっているのは、見かけの知識だけで納得してしまい、見かけの裏に潜む共通の原理までわかっていないから。
別々の記憶と知識を(応用)つなげていくと見えてくるもの(わかった)がある。